この世界の片隅に

戦争は怖い、
戦争はいけない、
戦争があろうがなかろうが、与えられたものの中で精一杯に生きて行くしかない、
そして、そこへ向かうにあたって大義名分を唱えてきた人間がその責任を取らないこと、言った約束を守らないことへの怒り、そして守られなかった約束の後でも、毎日は続くのだ、ということ。

本当はみんなわかっているのに、出征を「おめでとう」「万歳」と言って送り出すことの辛さ、そしてそこに疑問があってもそれを言ってはならないという「空気」が支配していたこと、また、それが今日(こんにち)も変わらず、我々の「空気」に引き継がれていて破壊しにかからないといけないテーマだということ。

肉親が死んだこと、戦争で死んだことの辛さを他人の面前で嘆いたり、泣いたり、悲しんだりすること自体が「反戦行為」と取られてしまうという、行き過ぎた論理とまたまた「空気」が支配していたこと、そしてこれもまた未だに変わらず引き継がれてる「空気」であるというのを、311の時にも「自粛ムード」という形で確認できたこと。
そして熊本の地震ではあまり「空気」としてこちらに伝わらなかったあたりでも、東京圏内に住む人間の感覚(実感がわかない、という意味で)確認できたこと。

新型爆弾が落とされたから、戦争が終わった、という納得の仕方ができなかった「最後の一人まで戦うんじゃなかったのか?」という問い。

愚かしい世界で、その片隅で、何も知らずに幸せに生きて行くことすら許されなかったことへの怒り、そしてその片隅での生存すら奪い取ろうとする暴力への怒り。

今、問われているのは、これら当時の状況から得た学びによって再び戦争が起こらぬよう、こうした悲劇を世界中から根絶するよう、確固たる意志を持って、真剣に「空気」で許されてしまいがちな嘘と向き合うことなんだろう。

この世界の片隅で生きて行く、自分だけが何も知らなくても良い、自分の家庭だけの幸せが守られるならそれで良い、という価値観と行動だけでは、抑止できない可能性は高いし、本来うっとおしい反戦というものに対しての具体的な行動や、それを議論するということの社会的な意義について、カジュアルに当たり前のこととして受け取られるべく、自分にできることをやらねば、という決意を新たにさせられる映画でした。

原作本も購入して、読み始めたところですが、折に触れて本当は優しい人たちの心根の卑しさと向き合う覚悟が必要だなとも再認識しています。

資源と技術の不足によって敗北をしたのではなく、規範と哲学を持たないことによって敗北したのだという仮説を、検証しながら伝えていきたいとも思いました。
そもそも、はじめてはいけない戦争だったのですから。
生存のために選ぶ道が、今後もどうか、過ちではありませんように。

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