定見を持たない生き方

定見という言葉自体そんなに多用される言葉じゃない。

いろんなことをしっかり見据えて、その中での現在位置を確認し続けないと持てないような類のものでもあろうかとは思う。

接続詞をあえて省いて文章を記述するのもまた、それぞれの見方に委ねるスタイルでしか何かを公にして行きたくないという考えがベースになってはいる。

毎日文章を書き続けているものが、公のものかそうでないかに関わらず、数多の、そしてたいていは儀礼的で意味のない文章を延々と書き続けてきたことによって、より本来の考え方やメッセージは薄まってきているのだ。

だからこそ、また定見をみつめて、それでいていつでも捨てられる生き方に。

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